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「相手は誰です?こゝの御隠居ですかい」
と、突然房一の肩を押へて云つた者がある。いつのまにか、練吉が傍に来ていたのだ。彼は酒の酔ひもさめたと見えて、興奮し、そのために稍強きつい、輪郭のはつきりした顔立ちになつて、一心に土手の方を注視していた。
「ねえ!」
これはちっとも可笑おかしくない!彼ら二人は実にいい夫婦なのである。
「なあに、後から来るのんはほんの擦かすり傷みたいなもんやから、大事ありません。――時にせんせい、何んぼ差上げたらえゝでせう?」
その粗暴な外見とは反対に、徳次はさういふ血生臭ちなまぐさいことが嫌ひだつた。そして、人並外れた敏感さを示すのであつた。今もそれで、彼はいかにも心外げな様子を、その無意識な仕草の中に現していた。
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
今度は正文の方で答へなかつた。そして急に苦がい顔になつて、ぢろりと薬戸棚を見まはしただけで母屋おもやの方へ帰つて行つた。
「あ、神原の喜作さんだ」
と、呟き、房一に向つてしきりとうなづいていた。
「徳さんが新しいのを掛けてくれるまで待つていた方がいいかもしれませんね、これは」
が、練吉が駆け登つたのを見ると、先方の男は急に威丈高になつて怒鳴つた。
身体を拭きにかゝつていると、台所の土間の方で、誰か来たらしい、盛子に向つてしきりと何か云つている声が耳に入つた。それは、せきこんだ、悲しげな、訴へるやうな女の声だつた。